方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

『話を聞かない男、地図が読めない女』 (6) − 新装版発売

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『話を聞かない男、地図が読めない女』 (4) − 空間能力と地図
『話を聞かない男、地図が読めない女』 (5) − ナビゲーションと地図 



 本日(2015年12月11日)、『話を聞かない男、地図が読めない女』(以下、『話を〜』と表記します)の新装版(紙書籍・電子書籍)が発売されました。
 宣伝記事はこちら。 

・200万部超えのベストセラーが読みやすくなって帰ってきた『新装版 話を聞かない男、地図が読めない女』発売 電子書籍100円セール実施&WEB「男脳?女脳?診断テスト」公開 
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000470.000002372.html 

 上記リンク先記事によれば、 

この度内容を全面的に見直し、「要点やポイントを日本の読者にわかりやすく伝える」「厚すぎる本はちょっと苦手という人でもすぐに読める」の2点を徹底して再編集し、ベストセラーを楽しく読めるように工夫いたしました。

ということですので、どうやらかつての単行本・文庫本のお手軽な劣化版のようです。『話を〜』への否定材料はとっくに出揃っているにもかかわらず、発売から15年経った今なお売れ続け、初版を知らない若年層にも受け入れられているのは問題でしょう。

 『話を〜』の初版が日本で発売された2000年以降、男脳・女脳説は自己啓発ビジネスとして確立してしまい、企業研修や自治体主催の講演などで広められているほか、テレビや雑誌でも、お気軽ネタとして頻繁に取り上げられています。また、学校の授業で男脳・女脳説を教えているという情報もかなり捕捉しています。
 男脳・女脳説は、政治的影響力の大きい宗教右翼イデオロギーとも親和性が高く、現在の趨勢が続けば、いずれ理科教育で公的に男脳・女脳説が導入されるのではないかと危惧しています。
 『話を〜』の原題は《Why Men Don't Listen and Women Can't Read Maps》ですが、「"why men don't listen" pseudoscience〔エセ科学〕」あたりのキーワードで英語サイトをウェブ検索すれば容易に批判記事が見つかるのに、日本語の批判記事は少なく、私の書いた過去記事がトップにヒットする始末です。神経科学、生物学、ジェンダー学、人類学方面からの批判記事がもっと書かれてもよさそうなものですが。
 男脳・女脳説がアカデミズム界を侵食している状況を批判した日本語記事をリンクしておきます。 

・ブログImaginary Linesより 2013年11月30日付記事
 えーしーどっとじぇーぴー
http://d.hatena.ne.jp/debyu-bo/20131130/1385739792 

 『話を〜』には、ピーズ国際研究所とやらの驚愕の研究成果が紹介されています。例えば、こんなの。↓ 

・画像 男女の性衝動の経年変化(出典:ピーズ国際研究所)
http://p.shame.jp/smp/imageview/Ukt4ftZWJx1.jpg 

 笑撃的!!! なんと、縦軸に単位の無いグラフです。高・低と表記されているだけ。性衝動なんて、どうやって測定したのでしょうか。通常なら、性的なことを考えた頻度なり、パートナーに性的接触を試みた回数なりを聞き取り調査するものですが。このグラフ、どこからどう見ても、ただの妄想グラフです。学問的訓練を受けたはずのアカデミシャンが、『話を〜』程度の本も見破れずに真に受けているのは情けないことです。

 男脳・女脳説には、原始時代に男は狩りをなんちゃらという話がつきものですが、「原始時代」の単語を全部「前世」に置き換えて読んでも違和感がありません。内容的にも、スピリチュアル系の前世占いと似たり寄ったりです。
「そうか、俺は前世で狩りをしていたから女と違って空間認識能力が高くて論理的で解決策を提示したがるのかキャッキャウフフはぁと」
と読者が自惚れまじりに勝手に納得する世界ですね。
 根本のところで異常な勘違いをして、出来もしないことを出来るかのように思い込むことを「ドボン」と呼びますが、『話を〜』の影響で、狩猟のドボンに嵌まる男が続出したのは痛い限りです。男の会話やLINEの仕方に至るまで何でも狩猟にこじつける割に、当人は全く狩猟ができない、狩猟風景を見たこともないし狩猟のやり方もわからない、イノシシが鼻息荒く乱入して暴れれば泡をくって逃げ出すのは確実、という手合いです。前世原始時代の狩猟の名残など跡形もないんだから、狩猟にこじつけるのは止めれ。 

 『話を〜』の旧版には書いていなかったように記憶しているのですが、最近よく

「人差指より薬指の長い人は男脳、
 薬指より人差指の長い人は女脳」

という説を聞きます。『話を〜』の新装版には書いてあるかもしれません。「男脳 薬指」のキーワードでウェブ検索すれば解説サイトが山ほど見つかります。何でも、男は薬指の方が長い傾向があり、女は人差指の方が長い傾向があるのだとか。
 ではここで、産業技術総合研究所産総研)が公開している「日本人の手の寸法データ」を見てみましょう。 

・AIST日本人の手の寸法データ
https://www.dh.aist.go.jp/database/hand/ 

 人差指の長さ(平均値) 男性 71.3mm 女性 66.5mm
 薬指の長さ (平均値) 男性 74.5mm 女性 69.2mm 

 ......男女とも薬指の方が長いやんけ。どのみち3ミリかそこらの差ですが。
 ともあれ、「相手の性格や能力を、相手の言動から判断せず、指の長さで判断する人」の判断能力の程度は、指の長さなど見なくても分かるでしょう。 

 男脳・女脳テストみたいなインチキテストで男脳判定が出ようが女脳判定が出ようが、その人の地図読み能力は分かりません。しかし、読図テストをやってみれば、その人のおおよその地図読み能力は見当がつきます。例えば、下記リンク先の読図問題は、簡単すぎるので解答すら書いていません。この問題が分からないようなら、初級者以前の地図が読めない人だと見做されます。 

NPO法人 M-nop
 机上読図問題 問4
http://www.m-nop.com/topics/navigationtext/q4/ 

 男脳・女脳テストに嬉々として飛びつき、自分は男脳だと得意気にドヤる人に限って、上記リンク先のように客観的なテストはやりたがらないものです。論理的思考ができるなら、男脳・女脳テストと読図テスト、どちらをやる方が能力判定に有効か分かりそうなものですが。
 誰だって、最初のうちは地図が読めません。また、地図を読む必要性に乏しい生活を送っている人が地図を読めないのも当たり前です。地図を読む必要性が生じ、地図読みの訓練を積むことにより、地図を読む能力は向上します。男脳だの女脳だのは関係ありません。 
 『話を〜』の出版側も、さすがに今時「女は地図が読めない」という言説は嘘八百バレバレだと分かっているのか、新装版の宣伝ではあまり地図のことは触れず、より自己啓発側にシフトしているようです。しかし、

 男は地図が読めるが、女は読めない

という主張は本書の根幹を成す部分であり、ここが崩れれば、『話を〜』全体が信用ならない本だということになります。はてさて、どうなることやら。 
 

心的回転(メンタルローテーション)の日常例

 当ブログには、「心的回転 日常例」ないしは類似のキーワード検索にて訪問してくる人がそこそこいます。この手のキーワードで検索してきたあなたは、心理学のレポートを書いている学生さんですね? 心的回転の日常例を挙げよとの課題を出されて大変でしょう。で、自分ではこれといった事例も思いつかず、ヒントを求めてあれこれウェブ検索するも大した情報は得られず、結局、どの学生さんも判で押したように、「地図を回して実際の向きに合わせる」例ばかりレポートに書いていますね。どうです、図星でしょう? 
 誰も彼も同じ金太郎飴レポートでは芸がありませんし、大体、心的回転(メンタルローテーション)の日常例として「地図を回して実際の向きに合わせる」事例しか挙げられないのであれば、心的回転なんぞ日常生活に何の役にも立たないと宣言しているのと同じです。だって、「地図を回して実際の向きに合わせる」ことは、地図読みの基本であり、正置(整置)という名称まで付いていますから。オリエンテーリング選手、アドベンチャーレーサー、山岳読図をやっている人など、地図を読む能力が非常に高い人は、ちゃんと地図を回して実際の向きに合わせて読んでいます。地図を回さずに読めるとしても、それがナンボのもんじゃい、ってことですね。それどころか、読図講習においても、経験者を対象に難しい課題を出す場合は、講習の参加者に「地図の正置ができる人」と限定条件をつけることもあります。地図を回して実際の向きに合わせることのできない人には、この講習は難しすぎて無理ですよ、ということです。このへんの事情は、過去記事でも書いています。  

地図を正置(整置)してみよう!
地図をクルクル回す人は、なぜバカにされるのか?
『所さんの目がテン! 方向音痴特集』(4) − メンタルローテーションの過大評価  

 では、他に心的回転の日常例は? もう思いつかない? ほら、飲食店のテーブルについた時、テーブル上にメニューが置いてありますよね。メニューが自分から見て反対向きに置いてあった場合、上下を引っくり返して見る人は、心的回転能力が低い人です。心的回転能力が高い人は、頭の中で文字を回転させることができますから、メニューを回さずに読むことができます。テーブル上に無造作に新聞が置かれていても、心的回転能力が高い人は、文字が90度回転していようが180度回転していようが、新聞自体を回さなくてもたやすく読むことができます。他にも、楽器演奏家が楽譜立てにうっかり楽譜を逆さまに置いてしまった時でも、心的回転能力が高ければ、楽譜を引っくり返さずにそのまま演奏することができます。あと、壁掛けテレビをうっかり逆さまに掛けてしまっても、心的回転能力が高ければ、頭の中で映像を回転させることができますから、いちいちテレビを掛け直さなくてもそのまま見ることができます。 
 えっ、ふざけとんのかワレぇ、ですか? でも、あなたや他の学生さんたちが大真面目にレポートに書いている「地図を回して実際の向きに合わせる」事例だって、メニューを回すだのテレビを回すだのと同レベルのふざけた事例ですよ?

 
 メニューやら新聞やら楽譜やらテレビやら、向きが違っていたら普通は回すでしょう。回さなくても支障のないほど心的回転能力が高い人など滅多にいませんし、ほとんどの人は心的回転能力が低いのですが、頭の中で回転させるのが難しければ現物を回せば済むことですから、日常生活に差し支えはありません。
 本が逆さまになっていたら回す、というのは、特に教えなくても誰もができますが、地図の向きを実際の風景に合わせて回すのは、ある程度コツを掴む必要があります。地図を回せば、地図上に書かれた地名の文字は傾きますが、地図を読む際は、地名を読むよりも、風景から得られる情報と地図上に図示された情報を照合する方が優先されることは言うまでもありません。 
 

 もし仮に、本がどの向きになっていようが回すことなく苦もなく読めるほど心的回転能力の高い人がいたとしても、そんなことは単なる「物珍しい曲芸」に過ぎず、何の自慢にもならないことは、当の本人が一番よく自覚しているのではないでしょうか。心的回転能力の高い人が、本を回す人をバカにして
「本を回すヤツは本が読めない。回さずに読める俺様スゲー」
と自慢していたら、哀れを通り越して、見ているこちらの方がつらいでしょう。ところが、「本」が「地図」に換わった途端、こじらせた人がぞろぞろ出てきます。勝手にこじらせの道具として利用される地図が不憫でなりません。 
 
「○○を回す人は○○が読めない(理解できない)」  

の○○部分に、「本」「楽譜」「テレビ」などを代入した時には、ほとんどの人がバカバカしいことに気付くのに、「地図」を代入した途端におかしさに気付かなくなるのは不思議です。 

 逆さまになった壁掛けテレビをストレスなく観ることができる能力を持っている人が、必ずしも映像から情報を読み取る能力が高いわけではありません。両者は全く別の能力です。それと、主観や客観とも全く関係ありません。本を回さずに読むのは客観的な読み方だが、本を回して読むのは主観的な読み方だ、と主張するのはバカげています。 


 「心的回転能力」と「文章の内容読解能力」の間には、直接の関係は何もありません。ただ、大抵の人は心的回転能力が低く、逆さになったり傾いたりしている文字をいちいち頭の中で回転させながら読んで、要らん頭を回したことろで、肝心の文章内容を理解するのに足を引っ張られるだけでしょう。その意味では、本を回さずに読む人よりも、本を回して読む人の方が文章読解能力は高いと言えるでしょうし、現にほとんどの人は、本が逆さまになっていれば回して読んでいます。
 先述した通り、地図を読む能力が非常に高い人は地図を回しながら読んでいますが、別に心的回転能力と地図読み能力との間に負の因果関係があるわけではなく、地図の向きを実際の風景の向きに合わせることにより、効率よく地図から情報を読み取ることができ、それが地図読み能力の高さを支えているのだと考えられます。  


 ではここで、心的回転のレポートを書いている学生さんに提案。指導教員には手渡しでレポートを提出し、
「レポートの最初の部分だけでも目を通してください」
と言ってみてはどうでしょうか。もちろん、レポートの向きは、指導教員から見て逆さまになるように向けて渡します。その時あなたは、正に「心的回転の日常例」を目撃することになるでしょう。
 あ、レポートの冒頭には、以下の文章をコピペしていただいて構いません。 

学生からレポートを手渡されたとき、レポートの向きが逆さまであれば、レポートをくるりと回す指導教員をよく見かける。これは心的回転能力が低く、レポートの文字を頭の中で回転させることが困難であるからだと考えられる。心的回転の能力が高い指導教員であれば、頭の中で文字を回転させることができるので、レポートを回すことなく読むであろう。このように、心的回転はわれわれの日常に深く関わっている。

 

 指導教員がどんな反応をするか、興味が湧きませんか? もっとも指導教員が先回りして当記事を検索して読んでいて、コピペを咎めてくる可能性も大ありですが。

常に方角を意識すれば方角がわかるようになるか?

 過去記事東西南北な人、前後左右な人の続きです。

 京都・大阪・神戸・名古屋など、東西南北が容易に分かる地域に住んでいる人は、場所を説明する時、方位で表現することを好みます。しかし、他地方に行ってもすぐに方角が分かるわけではないし、見知らぬ土地で迷わないわけでもありません。
 相対的位置を示す「左右」の語を使わずに、絶対座標である「東西南北」の語を使うように心掛けていれば、絶対的位置が把握できるようになるから迷わなくなる、と主張する人が少なからず存在します。よく引き合いに出されるのが「左右」の語を持たずに「東西南北」で位置を表すグーグ・イミディル語です。グーグ・イミディル語話者が、100km以上離れた場所から自宅の方角を5度以内の誤差で正確に指差すことができた、というエピソードは有名です。しかし、私はこの件に関して極めて懐疑的です。グーグ・イミディル語話者はオーストラリア先住民であり、非常に見通しがよく東西南北が容易に判別できる地域に住んでいると思われますが、見通しが悪くごちゃっとした都市内でも正確に定位できるのか甚だ疑問です。
 その人が使っている言葉により、その人の考え方や知識量など、おおよそ見当をつけることができるのは確かでしょう。また、「細菌「地球」「電波」など、それ以前の時代になかった語彙を獲得した時、世界への認識の仕方も変わったものと思われます。確かに言葉は人の思考に影響を与えはするでしょうが、言葉で超能力は身につきません。
 例えば、核物理学の素養のある人なら、「α線」「β線」「γ線」「制動X線」「特性X線」などの語を、極めて正確に厳密に使い分けますが、だからといって、可視光線以外の電磁波が見えるようになるわけではありません。
 別の例も挙げましょう。ホテルに泊まった時、隣の部屋から物音が聞こえてくれば、我々は「人がいる」と表現します。ヘリコプターで上空から撮影した映像を見て、建物の屋上に黒い粒みたいなのが動いていれば、「屋上に人がいる」と表現します。名簿の中に「Ndoywthxiihe]という名前があれば、「この人はどこの国の人だろう」と言いますね。しかし、漠然とした「人」を表す語が無く、常に男か女か明示する言語もあります。「Ndoywthxiiheって、どこの国の男だろう」といった具合に。では、性別明示言語話者は、性別明示言語を使い続けることによって、物音を聞いたり黒い粒みたいな人影を見たり名簿の名前を見たりしただけで、相手の性別を瞬時に判別できる超能力が身についたとでも? そんなことはない、単なる当て推量に過ぎないでしょう。 

 よく知られているように、イスラム教徒は1日5回、メッカの方角に向かって礼拝します。イスラム教徒は、自分の慣れ親しんだ町中であれば大体どこにいてもメッカの方角を把握しています。見知らぬ町に出かけても、イスラム圏内であればモスク(イスラム礼拝堂)があるから大丈夫。モスクにはちゃんとメッカの方角が表示されています。
 しかし、物心ついた時から常にメッカの方角を意識する生活を何十年と続けたところで、イスラム圏から出てモスクの無い場所に行けば、メッカの方角など分かりはしません。だからこそ、メッカの方角を示す携帯アプリや腕時計、コンパスなどがイスラム教徒の間でヒット商品となるわけです。 

 地図読みに長けた人なら、常日頃から北の方角を指すコンパスを見慣れています。知らない場所で方角を当てさせるテストを実施した場合、コンパス慣れした人は、一般の平均よりも高い得点を叩き出すでしょう。しかし、別に北の方角を指すコンパスを見続けているうちに人体が磁性体と化して方角が分かるようになったわけではなく、単に周囲の環境中に存在する方角情報(太陽など)を見つけ出して方角を推測するスキルが他の人より少々高いだけです。
 東京在住の地図読み上級者(上級者の定義はこちら)が、南アルプスの沢を遡行中だとします。その上級者に
「あなたの家の方角はどちらですか?」
と唐突に訊ねたら、5度以内の誤差で正確に指差すどころか、
「知るかそんなもん」
と返事されるのがオチでしょう。
 地図読みの上級者は、確かに方角の推測能力もそれなりに高いのですが、濃霧に巻かれた時や、背丈を越す笹薮に突入した時など、自分はいとも簡単に方角が分からなくなってしまうことも自覚しています。分かりもしないことまで分かったかのように思い込んだりしません。 

 下記リンク先の記事は非常に示唆的です。 

伊那谷の山 ひとりごと 山で道に迷う
http://www.janis.or.jp/users/yoichi-k/mitimayoi.html 

 上記リンク先記事の筆者さんは、全く踏み跡の無い山中でも問題なくナビゲーションできる上級者ですが、ピークでうっかり体を回転させただけで方角が分からなくなっています。上級者といえども体を回転させただけで方角が分からなくなる、と言うより、上級者だからこそ、体を回転させて方角が分からなくなってしまった状況を正確に認識できた、と言うべきでしょう。「自分はいつ何時どこにいても方角が分かる」と大言する人は、えてして地図を読めない人に多いものですが、そういう人であれば、体を回転させて方角が分からなくなってしまった状況すら認識できずに思い込みに基づいて行動しそうです。
 リンク先記事から引用してみましょう。 

あわてて私は自分の足跡を探した。枯れ葉が一面に積もっていたので、ほんの少しの枯葉を蹴った跡とか、靴が滑った跡とかを、慎重に探した。4、5分は探したがダメだった。そこでようやく迷ったことを自覚した。地図を開いてこの地形に気がついて、樹林の中からはまわりの地形を見ようとしたが、木が密生してまったく見えない。コンパスに頼りたくても今日は持ってきていない。

あせって次に考えたことは見覚えのある木や石を見つけることだった。
[中略]
15分から20分ぐらい、付近をさまよったがどうしても見覚えのあるものがない。

 
 方角が分からなくなってからは、自分の足跡や周囲の特徴物、見覚えのある木や石など、何らかの目印を探そうとしています。最終的に、ピークから螺旋状に下りながら目印を探す作戦を実行し、見覚えのある石を見つけ出します。 

 方角が分からなくなってしまうことは、誰にだってあり得ます。ただ、上級者であれば、適切な対処策を取ることができるので、方角が分からなくなったことにより被るダメージを最小限に抑えられるってだけのことです。