方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

東西南北な人、前後左右な人

 人に道を教えるとき、左右よりも東西南北で説明する人は、京都、大阪、名古屋、神戸などに多いと言われます。これは、特殊な土地事情に起因しています。 

 京都、大阪、名古屋は、道路がほぼ東西方向、南北方向に走る碁盤目状になっています。特に京都は非常に整然としています。
 神戸は、ほぼ北側に六甲山塊が見え、南側が海になっています。平野部が狭く(現在は埋め立てや造成で平野部が広がったが、昔はもっと狭かった)、坂が多いため、どちらが山側かすぐにわかります。
 このように、東西南北が簡単にわかる地域に長く住んでいる人は、東西南北の表現を好んで使います。慣れない他地方の人は面食らいますが、慣れれば東西南北把握は非常に便利です。特殊な土地事情のもとでは、前後左右で把握するより東西南北で把握する方が合理的です。
 東西南北で把握する人を「東西南北な人」、東西南北がわからず、前後左右で把握する人を「前後左右な人」と呼ぶことにしましょう。
 当然ながら、自分たちが長年培ってきた常識が通用しない地域(東西南北が容易にはわからない地域)に行けば、東西南北な人もただの方向音痴です。この点、前後左右な人の方が順応は早いかもしれません。東西南北を感覚器で直接感知することはできませんが、前後左右なら、感覚のみで判断できます。つまり、東西南北より前後左右の方が汎用性は高いわけです。
 都市部では、高い建物が林立し、視界が非常に悪いため、東西南北が容易にわからないことがあります。道路が碁盤目状になっていない都市ではなおさらです。目的地がすぐ近くにあっても見えないことも多く、また、建物や敷地を避けながら かなりの迂回を強いられたりします。こんな場所では、汎用性の高い前後左右把握の方が何かと便利だったりします。 

 方向音痴な言説流布者の中には、「東西南北至上主義」みたいな言説を撒き散らす人がいて、困りものです。「東西南北至上主義者」によれば、東西南北な人は絶対座標感覚が優れていて、知らない土地でもすぐに方向がわかるそうですが、とんでもない。東西南北な人の多くは、あくまでも特殊な土地事情のもとでの合理性を追求しただけであって、知らない土地では訳がわからなくなることに変わりはありません。前後左右ではなく東西南北で把握したからといって、何か特殊能力が発達したり、(知らない土地でも通用する)ナビゲーション能力が向上したりするわけではありません。それと、当たり前のことですが、方角というものは360度方向です。「東西南北至上主義者」は、ひょっとして東西南北の4方向しか存在しないと本気で信じているのではないか、と疑いたくなることがあります。 


 余談になりますが、岩波新書『ことばと思考』(今井 むつみ著)に、気になる記述があったので紹介しておきます。なお、私はこの本を図書館で読んだので、本の現物が手元に無く、記憶頼りに書いている点をご了承ください。おおよそ、こんな内容です。 

ことばと思考 (岩波新書)

オーストラリア先住民族の言語グーグ・イミディル語は、「右」「左」を表す言葉が無く、位置を表すには東西南北の語を使う。グーグ・イミディル語話者を100km離れた町に車で連れていき、自分の家の方向を指差してもらったところ、5度以内の誤差で正確に当ててみせた。

 さすがに、これは眉唾でしょう。「左右」の語を使わず「東西南北」で言い表す習慣を持つだけで特殊能力が発達するとは、ちょっと考えにくいことです。方向の検証手順はちゃんと行われていたのでしょうか。
 この本の主題は、使う言語によって、話者の思考や外界認知がある程度は規定されるというもの。それは全くその通りですが、思考や認識を超えたことまで規定されるというのはどうだか。
 ただし、この本自体は非常に面白いし、ためになります。おススメです。それだけに、信憑性に乏しい話を無批判に書いている点がちょっと残念だったのでした。