方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

「地図を読む能力」と「ナビゲーション能力」は別物

*注 : このエントリでは、「地図」とは道路地図・市街地図を指します。つまり、「地図」と聞いて普通の人がイメージする地図のことです。 

 現代の先進国では、道路網が発達し、自動車を所有するのは一握りの特権階級だけではなく、一般市民にも及んでいます。地図を頼りに知らない場所に行く機会も多く、その需要に応えるために、各種の地図が発行され、小さな書店でも入手可能です。最近ではウェブでも簡単に地図が入手できます。現代の先進国では、「地図を読む能力」と「ナビゲーション能力」は密接に結びついています。
 しかし、人類の歴史の大部分において、両者は全く別物でした。ほとんどの時代において、人類は地図が読めなかったからです。一般庶民が地図など読めるようになったのは、先進国でほんのここ百年くらいのこと。地図が全然読めなくても高度なナビゲーション能力を持つ人はいます。事実、開発途上国では、現在でも、地図はおろか文字すら読めない人たちが山岳ゲリラとなり、非常に複雑な地形(地形が単純だと山岳ゲリラの隠れ場所が無い)の場所を徒歩で広範囲に移動しています。 

 もう15年以上前になりますが、とある山菜採り名人(以下、「名人」と呼ぶことにします)に、山を案内してもらったことがあります。その当時すでに名人は高齢だったにもかかわらず、さっさと山を歩いていく健脚ぶりもさることながら、その驚異的なナビゲーション能力には唸らされました。因みに名人は全く地図が読めません。
 名人はどうやってナビゲーションしているか、無意識にやっていることだけに、名人自身もうまく説明できないようでした。太陽の方向はあまり気にしていないらしい。せいぜい、「日が傾いてきた」と大雑把に時間を見積もるくらいで、ナビゲーションには使っていないようです。試しに北の方角を指差してもらったところ、見当違いの方向を差していましたから、あまり方角もわかっていないようです。
 名人はその山に子どもの頃から通い、細かいことまで知り尽くしていました。「この木はこう、あの木はどう」という具合に、木の一本一本まで識別しているのではないか、と思えるくらいに詳しく知っていました。名人は、「この木のこっち側を行って、(指差しながら)あの辺にいつもマイタケが出る」みたいな言い方を好んでしていました。どうやら名人は、詳細な風景記憶を持っているらしいこと、普通の人には識別不能で一絡げに「木」としてしか認識できないような一本一本の木を識別し、目印にしているらしいことが窺えます。 

 経験を積むこと(何度も通うなどして)、風景記憶を持つこと、目印を覚えること − 地図に頼らないナビゲーションでは、経験と記憶力が重要になります。