方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

「女は地図が読めない」と言いたがる人、論理と感情、そして土星探査機カッシーニ

 2000年に『話を聞かない男、地図が読めない女』というトンデモ本が日本で発売されて以来、2024年現在に至るまで「女は地図が読めない」と信じ続けている人は大勢います。初期消火に失敗して広まった俗説は何十年も残り続けるものです。 
 「女は地図が読めない」と言いたがるのはどんな人なのか、2011年末に書いた過去記事なぜ信じてしまうのか?でも触れておきましたが、実はこの頃私は、「女は空間認識能力が低くて地図が読めない」と言い張る男性とネット上で不毛なやり取りをしていました。この男性を「火星男」と呼ぶことにしましょう。12年以上前のことだしもう時効なので、この時のことを詳述してもよいでしょう。見事なまでに典型的な事例ですからね。 

 

きっかけ 

 2011年の終わり頃、火星男は私にこう言ってきました。 
「バカ女がいて土星探査機が金星に立ち寄ったと言っていた。惑星は水金地火木土天海なんだから最初に立ち寄るのは火星だろ。これだから女は空間認識能力が低くて地図が読めない」 
 ざっとこんな内容でした。もはや全方位ツッコミどころしかありません。火星男は私も一緒になってバカ女叩きをしてくれるものと期待していたのでしょうが、あいにくです。まずは些細な部分から突っ込んでいきましょう。 

 当たり前のことですが、地図読み能力が人一倍高くても天文学や天体探査に興味がなければ、この分野に関して初歩的な間違いを口にするのは普通です。地図読み能力や空間認識能力とは関係ないことです。 
 火星男に限らず、地図とは関係ない話なのに「地図が読めない」と罵倒する人はいるものです。 

 

スイングバイ 

 火星男はどうやら、太陽系解説図的に惑星が直列していて、探査機は順番に通過していくイメージを持っていたようです。地球を出発して次は火星、それから木星、そして土星到達、といった具合です。 

冥王星(プルートー)とその衛星の名前の由来とは?

画像引用元 冥王星(プルートー)とその衛星の名前の由来とは?(季節・暮らしの話題 2015年07月28日) - 日本気象協会 tenki.jp 

 

 しかし、惑星探査機はそんな軌道を取りません。まずはスイングバイについて解説しておきます。 

 天体の運動と重力を利用して、探査機を加速/減速・方向転換させることを「スイングバイ」といいます。スイングバイを視覚的にわかりやすくした動画を紹介しておきます。解説は英語ですが、映像を見るだけでも概要が掴めます。

How to Perform a Gravity Assist 

 

 重力とは、質量によって生じた時空の歪みです。上記動画では、メッシュシートの窪みを重力(空間の歪み)に見立てています。また、大きな鉄球は天体を、小さなプラスチック球は探査機を模していると考えてください。公転する天体の進行方向後方から探査機が接近すると探査機がスピードアップし、天体の進行方向前方から接近するとスローダウンすることがわかるでしょう。天体の質量が大きく、また天体に近づくほどスイングバイの効果が大きくなることも直感的に理解しやすいでしょう。 

 さて、ここからが本題。ようやく火星男の致命的な間違いを指摘できます。 
 2011年当時、そして2024年2月現在も、土星周回軌道に乗った探査機は1機のみ。それが「カッシーニ」です。なお、パイオニア11号、ボイジャー1号・2号は土星に接近したものの周回はしていません。 
 1997年に打ち上げられたカッシーニが最初に向かった天体は、金星です。金星で2回スイングバイしたあと地球に舞い戻って地球でスイングバイ木星スイングバイして土星に到達しました。火星にはかすりもしていません。つまり、火星男の言う「バカ女」が完全に正しく、火星男は間違っています。 
 実のところ火星は低質量(地球質量の約1割)でスイングバイの効果が小さいので、木星以遠に向かう探査機が火星を通過することはあまりありません。ただし、遠日点が木星軌道付近にあるチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に向かった探査機ロゼッタは、火星でスイングバイしています。一方金星は質量がほぼ地球並みなので、しばしばスイングバイに利用されます。木星探査機ガリレオも金星でスイングバイしています。また、太陽探査機ユリシーズはわざわざ木星スイングバイしています。 

 

土星探査機カッシーニの軌道解説動画を紹介しておきます。地球→火星→木星土星の順番で直線的に訪問するわけではないことがよく分かります。 

Cassini trajectory  
 

 

 そんなわけで、当時私は火星男に対して、土星探査機カッシーニが金星を通過(それも2回も!)したのは事実であること、火星は通過していない旨を説明したのですが......無駄でした! 火星男は意味不明な論点ずらしと罵倒を繰り返すのみ。おそらくは火星男よりも学識の深いであろう女性をバカにした手前、引くに引けなくなったのかもしれませんが、「なんだ、知らなかった」と自分の間違いを認めるのがそんなに難しいかねえ。土星探査機の経路なんて知らない人の方が大多数だし、別に知らなくて恥ずかしいことでもないのに。 


ありがちな誤謬-論理的か感情的か 

 さて、火星男が次々と繰り出した言い逃れは実にありふれたものでした。ざっと見ていきましょう。 

 火星男によれば、土星探査機が金星に行ったと信じるのは感情論であり、火星を通過したと言うのが論理的なんだそうです。いますね、まともに論駁できなくなったら「それは感情論だ」と呪文を唱えて勝ったつもりになる人。 
 男脳と女脳(3) ? 男は問題解決、女は共感という俗説は、なぜ人口に膾炙し続けるのかでも触れておきましたが、「論理的vs感情的」みたいに、反対語でも何でもないのに反対語的に論じている言説は、どこかにごまかしがあると見ていいです。「感情的」の反対語は「理性的」であり、「論理的」の反対語は「非論理的」です。論理は感情とは無関係に成立するので、論理的かつ感情的な人や、非論理的かつ理性的な人はいくらでも存在します。
 また、論理的であれば正しいとは限りません。論理が完璧でも前提が誤っていれば、タワ言にしかなりません。例を挙げましょう。  

Aさん:(ヒステリックに)「このボケが! 全ての犬は植物だ。チワワは犬だ。ゆえにチワワは植物だ。わかったかキィーッ!」(物を投げつける) 
Bさん:「Aさん落ち着け。チワワは猫ではない。猫は動物だ。ゆえにチワワは動物だ」 

 このケースでは、論理的なのはAさんであり、Bさんは非論理的です。大前提(全ての犬は植物である)が間違っているので、結論(ゆえにチワワは植物だ)も間違っていますが、論理自体は正しいです。一方Bさんの主張だと、大前提(チワワは猫ではない)および小前提(猫は動物だ)から結論(ゆえにチワワは動物だ)が導き出されないのです。大前提も小前提も結論も全部正しいのですが、論理はデタラメです。 

 火星男の言説に戻りましょう。土星探査機がどのような軌道で目的地に到達したのか、論理によって導き出すよりは、むしろ実際にどうだったのか事実を調べることで判明します。探査機打ち上げ前に多くの科学者・技術者が論理を積み重ねて軌道設定したのは確かですが、土星到達した事後であれば事実が全てです。火星男の言う論理って何だろう? 
 

 余談ですが、私は火星男から「バカ女を擁護するのか」みたいなことも言われました。正しいことを言っている人に「それは正しい」と言い添えることのどこが擁護なんでしょうかね。
 あと、案の定というか、火星男はトンデモ本『話を聞かない男、地図が読めない女』を信じていて、私に読めと薦めてきました。いえ、読んだんですけどね。
 残念ながら火星男を説得することはできませんでした。何を言っても無駄だったのです。
 
 かくも多くの人が「論理的か感情的か」の誤謬に陥り、おまけに自分を「論理的」だと見なすのは実に痛いです。この手の人は、自分には感情が無いとでも思っているのでしょうが、その実 手に負えないほど肥大化した自己愛感情がダダ漏れしているのが傍目には丸バレです。
 感情というものは軽視されがちですが、非常に大事です。感情があるからこそ、山積みになっている問題に取り組む情熱が生じるし、未知の課題に立ち向かうことができます。一方で、感情を適切に制御できなければ、それこそ肥大化した自己愛感情を垂れ流しながら「俺様は論理的」と言い張り人の足を引っ張るだけの存在に成り下がります。自覚もできない感情は制御しようがないので、まず己の感情と向き合い、感情的な自分を受け容れることから始めたいものです。 

 

土星探査機カッシーニ 

 せっかくなので、偉大な功績を残したカッシーニについて簡単に解説しておきます。 

 NASAESAの共同で開発されたカッシーニは1997年に打ち上げられ、2004年に土星に到達、数々の発見をもたらし2017年に運用終了しました。 
 NASAが制作したカッシーニの解説動画を紹介しておきます。解説は英語ですが、美しい映像と音楽だけで十分に楽しめます。いちおう、動画の理解を助けるための説明を加えておきます。

0:57~1:05 土星到着直前、衛星フェーベを通過するカッシーニフェーベ土星から遠く離れた軌道を周回している。
1:05~1:12 主エンジンを噴射して減速、土星周回軌道に乗るカッシーニ
1:12~1:23 分厚い大気に覆われた巨大衛星タイタンに向けて探査プローブ「ホイヘンス」を投入。
1:23~1:30 衛星イアペトゥスには巨大な尾根が赤道上を一周している。
1:30~1:38 衛星タイタンの極域には、液体メタン及び液体エタンから成る大小さまざまな湖が存在する。鏡泊湖(チンポー湖)が太陽光を反射してきらめく。
1:38~1:50 氷に覆われた純白の衛星エンケラドゥス。氷の巨大な裂け目から間欠泉を宇宙に放出している。カッシーニエンケラドゥスの上空約50kmを通過し間欠泉に突入、サンプルを採集して有機物を発見。氷の表面の下には地下海が広がり、生命が存在可能であることが判明した。
2:10~2:45 土星ミッションの最終ステージ。カッシーニ土星本体と輪の間を駆け抜ける。
2:45~2:50 カッシーニの最期。土星大気に突入する。
2:50~   残りわずかな燃料を噴射して凄まじい風圧にあらがい姿勢を制御するカッシーニ。アンテナを地球に向け続けて大気のデータを送信。だが大気の摩擦熱により燃え尽きる。 

 では、動画をお楽しみください。

NASA at Saturn: Cassini's Grand Finale