方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

心的回転(メンタルローテーション)の日常例

 当ブログには、「心的回転 日常例」ないしは類似のキーワード検索にて訪問してくる人がそこそこいます。この手のキーワードで検索してきたあなたは、心理学のレポートを書いている学生さんですね? 心的回転の日常例を挙げよとの課題を出されて大変でしょう。で、自分ではこれといった事例も思いつかず、ヒントを求めてあれこれウェブ検索するも大した情報は得られず、結局、どの学生さんも判で押したように、「地図を回して実際の向きに合わせる」例ばかりレポートに書いていますね。どうです、図星でしょう? 
 誰も彼も同じ金太郎飴レポートでは芸がありませんし、大体、心的回転(メンタルローテーション)の日常例として「地図を回して実際の向きに合わせる」事例しか挙げられないのであれば、心的回転なんぞ日常生活に何の役にも立たないと宣言しているのと同じです。だって、「地図を回して実際の向きに合わせる」ことは、地図読みの基本であり、正置(整置)という名称まで付いていますから。オリエンテーリング選手、アドベンチャーレーサー、山岳読図をやっている人など、地図を読む能力が非常に高い人は、ちゃんと地図を回して実際の向きに合わせて読んでいます。地図を回さずに読めるとしても、それがナンボのもんじゃい、ってことですね。それどころか、読図講習においても、経験者を対象に難しい課題を出す場合は、講習の参加者に「地図の正置ができる人」と限定条件をつけることもあります。地図を回して実際の向きに合わせることのできない人には、この講習は難しすぎて無理ですよ、ということです。このへんの事情は、過去記事でも書いています。  

地図を正置(整置)してみよう!
地図をクルクル回す人は、なぜバカにされるのか?
『所さんの目がテン! 方向音痴特集』(4) − メンタルローテーションの過大評価  

 では、他に心的回転の日常例は? もう思いつかない? ほら、飲食店のテーブルについた時、テーブル上にメニューが置いてありますよね。メニューが自分から見て反対向きに置いてあった場合、上下を引っくり返して見る人は、心的回転能力が低い人です。心的回転能力が高い人は、頭の中で文字を回転させることができますから、メニューを回さずに読むことができます。テーブル上に無造作に新聞が置かれていても、心的回転能力が高い人は、文字が90度回転していようが180度回転していようが、新聞自体を回さなくてもたやすく読むことができます。他にも、楽器演奏家が楽譜立てにうっかり楽譜を逆さまに置いてしまった時でも、心的回転能力が高ければ、楽譜を引っくり返さずにそのまま演奏することができます。あと、壁掛けテレビをうっかり逆さまに掛けてしまっても、心的回転能力が高ければ、頭の中で映像を回転させることができますから、いちいちテレビを掛け直さなくてもそのまま見ることができます。 
 えっ、ふざけとんのかワレぇ、ですか? でも、あなたや他の学生さんたちが大真面目にレポートに書いている「地図を回して実際の向きに合わせる」事例だって、メニューを回すだのテレビを回すだのと同レベルのふざけた事例ですよ?

 
 メニューやら新聞やら楽譜やらテレビやら、向きが違っていたら普通は回すでしょう。回さなくても支障のないほど心的回転能力が高い人など滅多にいませんし、ほとんどの人は心的回転能力が低いのですが、頭の中で回転させるのが難しければ現物を回せば済むことですから、日常生活に差し支えはありません。
 本が逆さまになっていたら回す、というのは、特に教えなくても誰もができますが、地図の向きを実際の風景に合わせて回すのは、ある程度コツを掴む必要があります。地図を回せば、地図上に書かれた地名の文字は傾きますが、地図を読む際は、地名を読むよりも、風景から得られる情報と地図上に図示された情報を照合する方が優先されることは言うまでもありません。 
 

 もし仮に、本がどの向きになっていようが回すことなく苦もなく読めるほど心的回転能力の高い人がいたとしても、そんなことは単なる「物珍しい曲芸」に過ぎず、何の自慢にもならないことは、当の本人が一番よく自覚しているのではないでしょうか。心的回転能力の高い人が、本を回す人をバカにして
「本を回すヤツは本が読めない。回さずに読める俺様スゲー」
と自慢していたら、哀れを通り越して、見ているこちらの方がつらいでしょう。ところが、「本」が「地図」に換わった途端、こじらせた人がぞろぞろ出てきます。勝手にこじらせの道具として利用される地図が不憫でなりません。 
 
「○○を回す人は○○が読めない(理解できない)」  

の○○部分に、「本」「楽譜」「テレビ」などを代入した時には、ほとんどの人がバカバカしいことに気付くのに、「地図」を代入した途端におかしさに気付かなくなるのは不思議です。 

 逆さまになった壁掛けテレビをストレスなく観ることができる能力を持っている人が、必ずしも映像から情報を読み取る能力が高いわけではありません。両者は全く別の能力です。それと、主観や客観とも全く関係ありません。本を回さずに読むのは客観的な読み方だが、本を回して読むのは主観的な読み方だ、と主張するのはバカげています。 


 「心的回転能力」と「文章の内容読解能力」の間には、直接の関係は何もありません。ただ、大抵の人は心的回転能力が低く、逆さになったり傾いたりしている文字をいちいち頭の中で回転させながら読んで、要らん頭を回したことろで、肝心の文章内容を理解するのに足を引っ張られるだけでしょう。その意味では、本を回さずに読む人よりも、本を回して読む人の方が文章読解能力は高いと言えるでしょうし、現にほとんどの人は、本が逆さまになっていれば回して読んでいます。
 先述した通り、地図を読む能力が非常に高い人は地図を回しながら読んでいますが、別に心的回転能力と地図読み能力との間に負の因果関係があるわけではなく、地図の向きを実際の風景の向きに合わせることにより、効率よく地図から情報を読み取ることができ、それが地図読み能力の高さを支えているのだと考えられます。  


 ではここで、心的回転のレポートを書いている学生さんに提案。指導教員には手渡しでレポートを提出し、
「レポートの最初の部分だけでも目を通してください」
と言ってみてはどうでしょうか。もちろん、レポートの向きは、指導教員から見て逆さまになるように向けて渡します。その時あなたは、正に「心的回転の日常例」を目撃することになるでしょう。
 あ、レポートの冒頭には、以下の文章をコピペしていただいて構いません。 

学生からレポートを手渡されたとき、レポートの向きが逆さまであれば、レポートをくるりと回す指導教員をよく見かける。これは心的回転能力が低く、レポートの文字を頭の中で回転させることが困難であるからだと考えられる。心的回転の能力が高い指導教員であれば、頭の中で文字を回転させることができるので、レポートを回すことなく読むであろう。このように、心的回転はわれわれの日常に深く関わっている。

 

 指導教員がどんな反応をするか、興味が湧きませんか? もっとも指導教員が先回りして当記事を検索して読んでいて、コピペを咎めてくる可能性も大ありですが。

常に方角を意識すれば方角がわかるようになるか?

 過去記事東西南北な人、前後左右な人の続きです。

 京都・大阪・神戸・名古屋など、東西南北が容易に分かる地域に住んでいる人は、場所を説明する時、方位で表現することを好みます。しかし、他地方に行ってもすぐに方角が分かるわけではないし、見知らぬ土地で迷わないわけでもありません。
 相対的位置を示す「左右」の語を使わずに、絶対座標である「東西南北」の語を使うように心掛けていれば、絶対的位置が把握できるようになるから迷わなくなる、と主張する人が少なからず存在します。よく引き合いに出されるのが「左右」の語を持たずに「東西南北」で位置を表すグーグ・イミディル語です。グーグ・イミディル語話者が、100km以上離れた場所から自宅の方角を5度以内の誤差で正確に指差すことができた、というエピソードは有名です。しかし、私はこの件に関して極めて懐疑的です。グーグ・イミディル語話者はオーストラリア先住民であり、非常に見通しがよく東西南北が容易に判別できる地域に住んでいると思われますが、見通しが悪くごちゃっとした都市内でも正確に定位できるのか甚だ疑問です。
 その人が使っている言葉により、その人の考え方や知識量など、おおよそ見当をつけることができるのは確かでしょう。また、「細菌「地球」「電波」など、それ以前の時代になかった語彙を獲得した時、世界への認識の仕方も変わったものと思われます。確かに言葉は人の思考に影響を与えはするでしょうが、言葉で超能力は身につきません。
 例えば、核物理学の素養のある人なら、「α線」「β線」「γ線」「制動X線」「特性X線」などの語を、極めて正確に厳密に使い分けますが、だからといって、可視光線以外の電磁波が見えるようになるわけではありません。
 別の例も挙げましょう。ホテルに泊まった時、隣の部屋から物音が聞こえてくれば、我々は「人がいる」と表現します。ヘリコプターで上空から撮影した映像を見て、建物の屋上に黒い粒みたいなのが動いていれば、「屋上に人がいる」と表現します。名簿の中に「Ndoywthxiihe]という名前があれば、「この人はどこの国の人だろう」と言いますね。しかし、漠然とした「人」を表す語が無く、常に男か女か明示する言語もあります。「Ndoywthxiiheって、どこの国の男だろう」といった具合に。では、性別明示言語話者は、性別明示言語を使い続けることによって、物音を聞いたり黒い粒みたいな人影を見たり名簿の名前を見たりしただけで、相手の性別を瞬時に判別できる超能力が身についたとでも? そんなことはない、単なる当て推量に過ぎないでしょう。 

 よく知られているように、イスラム教徒は1日5回、メッカの方角に向かって礼拝します。イスラム教徒は、自分の慣れ親しんだ町中であれば大体どこにいてもメッカの方角を把握しています。見知らぬ町に出かけても、イスラム圏内であればモスク(イスラム礼拝堂)があるから大丈夫。モスクにはちゃんとメッカの方角が表示されています。
 しかし、物心ついた時から常にメッカの方角を意識する生活を何十年と続けたところで、イスラム圏から出てモスクの無い場所に行けば、メッカの方角など分かりはしません。だからこそ、メッカの方角を示す携帯アプリや腕時計、コンパスなどがイスラム教徒の間でヒット商品となるわけです。 

 地図読みに長けた人なら、常日頃から北の方角を指すコンパスを見慣れています。知らない場所で方角を当てさせるテストを実施した場合、コンパス慣れした人は、一般の平均よりも高い得点を叩き出すでしょう。しかし、別に北の方角を指すコンパスを見続けているうちに人体が磁性体と化して方角が分かるようになったわけではなく、単に周囲の環境中に存在する方角情報(太陽など)を見つけ出して方角を推測するスキルが他の人より少々高いだけです。
 東京在住の地図読み上級者(上級者の定義はこちら)が、南アルプスの沢を遡行中だとします。その上級者に
「あなたの家の方角はどちらですか?」
と唐突に訊ねたら、5度以内の誤差で正確に指差すどころか、
「知るかそんなもん」
と返事されるのがオチでしょう。
 地図読みの上級者は、確かに方角の推測能力もそれなりに高いのですが、濃霧に巻かれた時や、背丈を越す笹薮に突入した時など、自分はいとも簡単に方角が分からなくなってしまうことも自覚しています。分かりもしないことまで分かったかのように思い込んだりしません。 

 下記リンク先の記事は非常に示唆的です。 

伊那谷の山 ひとりごと 山で道に迷う
http://www.janis.or.jp/users/yoichi-k/mitimayoi.html 

 上記リンク先記事の筆者さんは、全く踏み跡の無い山中でも問題なくナビゲーションできる上級者ですが、ピークでうっかり体を回転させただけで方角が分からなくなっています。上級者といえども体を回転させただけで方角が分からなくなる、と言うより、上級者だからこそ、体を回転させて方角が分からなくなってしまった状況を正確に認識できた、と言うべきでしょう。「自分はいつ何時どこにいても方角が分かる」と大言する人は、えてして地図を読めない人に多いものですが、そういう人であれば、体を回転させて方角が分からなくなってしまった状況すら認識できずに思い込みに基づいて行動しそうです。
 リンク先記事から引用してみましょう。 

あわてて私は自分の足跡を探した。枯れ葉が一面に積もっていたので、ほんの少しの枯葉を蹴った跡とか、靴が滑った跡とかを、慎重に探した。4、5分は探したがダメだった。そこでようやく迷ったことを自覚した。地図を開いてこの地形に気がついて、樹林の中からはまわりの地形を見ようとしたが、木が密生してまったく見えない。コンパスに頼りたくても今日は持ってきていない。

あせって次に考えたことは見覚えのある木や石を見つけることだった。
[中略]
15分から20分ぐらい、付近をさまよったがどうしても見覚えのあるものがない。

 
 方角が分からなくなってからは、自分の足跡や周囲の特徴物、見覚えのある木や石など、何らかの目印を探そうとしています。最終的に、ピークから螺旋状に下りながら目印を探す作戦を実行し、見覚えのある石を見つけ出します。 

 方角が分からなくなってしまうことは、誰にだってあり得ます。ただ、上級者であれば、適切な対処策を取ることができるので、方角が分からなくなったことにより被るダメージを最小限に抑えられるってだけのことです。

男は方角と距離に基づいたナビゲーションが苦手(3)−八甲田山雪中行軍大量遭難死事件

関連過去記事
男は方角と距離に基づいたナビゲーションが苦手(1)−方角と距離に基づくナビゲーションはどうやるか 
男は方角と距離に基づいたナビゲーションが苦手(2)−リングワンダリングの恐怖

 1902年1月、日露戦争を想定した寒冷地軍事調査目的で雪中行軍した陸軍青森歩兵第5連隊(以下「歩兵隊」と表記します)210名中199名が死亡する事件が起こりました。また、生存者11名のうち8名が、凍傷により手足を切断しています。

ウィキペディア 八甲田雪中行軍遭難事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

 1977年、この事件を元にした映画『八甲田山』が公開され、大ヒットしました。

・映画『八甲田山』 予告篇(動画)
 

 この事件について様々な角度から論評することが可能ですが、ここは地図・ナビゲーションにまつわる俗説のおかしさを指摘することを目的としたブログですから、ナビゲーションの側面に論点を絞ります。
 遭難の直接原因は天候悪化ですが、歩兵隊は完全に道迷いしてリングワンダリング状態に陥り、直径3kmにも満たない範囲内を行き当たりばったりに彷徨し、無駄に体力を消耗していきます。 

 事件現場の地図はこちら。

・八甲田雪中行軍遭難事件
https://mapsengine.google.com/map/viewer?mid=z-0xoNRS5lRU.kj0KYeP5INgM 

 歩兵隊が予定していたルートは、現在の県道40号線にほぼ沿っています。1902年当時は、当然まだ舗装道路はありませんが、無雪期にはそれなりに人や物資の移動がある街道です。
 人がよく歩く街道は、積雪が浅いうちはちゃんと「道っぽく」見えます。しかし、雪が深くなるにつれ、道と道でない場所の境界が曖昧になり、道迷いを起こしやすくなります。さらに吹雪による視界不良が追い討ちをかけ、来た時の足跡を頼りに戻ろうにも、足跡もかき消されてしまいます。
 歩兵隊のメンバーは全員男性ですが、210名もの男性の誰一人として、方角・距離のナビゲーションを得意としてはいません。道っぽく見える部分を辿ったり、足跡を頼りに戻ったりすることができない状況に陥った、すなわち目印を順番に追うナビゲーションができなくなったからこそ迷ったわけです。

 歩兵隊はコンパスを所持していました。なぜコンパスを持っていたのか? 方角がわからないからです。しかし頼りのコンパスも、極寒で凍り付き役に立ちませんでした。余談になりますが、現在冬山でよく使われているコンパスの最低使用温度は、マイナス35℃〜マイナス40℃です。
 歩兵隊は、初日に既にリングワンダリングしています。斥候を兼ねて先行させた設営隊が道に迷ってしまい、あろうことか本隊の最後尾あたりに合流しています。
 第一日目の露営地は、当初予定していた露営地である田代新湯から西南西約1.5kmの地点です。 

 二日目、歩兵隊は帰営を決定し元の道を戻り始めますが、しょっぱなから道に迷い鳴沢渓谷に入り込み、さらに田代への道を知っている者がいるということで再度田代方面に目的地を変更しますが、またも方向を間違い駒込川本流に出てしまいます。既に死者を出した状態で、結局、初日の露営地からわずか700メートルしか離れていない場所で、初日よりもさらに劣悪な条件で露営することになります。この露営で最大の死者が出ました。 

 三日目、またしても道迷い状態の彷徨を続けますが、多少天候が回復した正午頃、初日に放棄したソリを斥候隊が発見した報告を受け本隊は歓喜します。なぜそんなに喜んだのか? 目印が見つかったからです。しかしまたも道に迷ってしまいます。この頃には生存者もばらばらになっていました。生存者が救助されたのは五日目以降になります。 


 ベストセラーになったトンデモ本『話を聞かない男、地図が読めない女』には、「男は窓のない部屋にはじめて入ったとき、北を正確に言いあてる。」と書いてありますが、そんなものは分かりません。『NHKスペシャル 女と男』によれば、原始時代、男は狩りをして住居にまっすぐ戻れるように空間認識能力が発達したので、方角と距離を基に直進して帰ることができるということですが、それも大嘘です。GPSが普及していなかった頃は、冬山登山の際に「デポ旗」と呼ばれる赤旗を何枚も持っていって目印として打っていました。方角と距離の感覚で帰還できるなら、デポ旗もコンパスも要りません。
 山では、周囲の状況が人間の能力の限界を超えてしまう事態が容易に起こり得ます。天候悪化の兆しがあれば引き返すこと、それが無理なら、余力のあるうちに早めに安全地帯(雪洞など)を作り上げ、状況が回復するまで体力を温存することが大事です。