方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

男は方角と距離に基づいたナビゲーションが苦手(3)−八甲田山雪中行軍大量遭難死事件

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 1902年1月、日露戦争を想定した寒冷地軍事調査目的で雪中行軍した陸軍青森歩兵第5連隊(以下「歩兵隊」と表記します)210名中199名が死亡する事件が起こりました。また、生存者11名のうち8名が、凍傷により手足を切断しています。

ウィキペディア 八甲田雪中行軍遭難事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

 1977年、この事件を元にした映画『八甲田山』が公開され、大ヒットしました。

・映画『八甲田山』 予告篇(動画)
 

 この事件について様々な角度から論評することが可能ですが、ここは地図・ナビゲーションにまつわる俗説のおかしさを指摘することを目的としたブログですから、ナビゲーションの側面に論点を絞ります。
 遭難の直接原因は天候悪化ですが、歩兵隊は完全に道迷いしてリングワンダリング状態に陥り、直径3kmにも満たない範囲内を行き当たりばったりに彷徨し、無駄に体力を消耗していきます。 

 事件現場の地図はこちら。

・八甲田雪中行軍遭難事件
https://mapsengine.google.com/map/viewer?mid=z-0xoNRS5lRU.kj0KYeP5INgM 

 歩兵隊が予定していたルートは、現在の県道40号線にほぼ沿っています。1902年当時は、当然まだ舗装道路はありませんが、無雪期にはそれなりに人や物資の移動がある街道です。
 人がよく歩く街道は、積雪が浅いうちはちゃんと「道っぽく」見えます。しかし、雪が深くなるにつれ、道と道でない場所の境界が曖昧になり、道迷いを起こしやすくなります。さらに吹雪による視界不良が追い討ちをかけ、来た時の足跡を頼りに戻ろうにも、足跡もかき消されてしまいます。
 歩兵隊のメンバーは全員男性ですが、210名もの男性の誰一人として、方角・距離のナビゲーションを得意としてはいません。道っぽく見える部分を辿ったり、足跡を頼りに戻ったりすることができない状況に陥った、すなわち目印を順番に追うナビゲーションができなくなったからこそ迷ったわけです。

 歩兵隊はコンパスを所持していました。なぜコンパスを持っていたのか? 方角がわからないからです。しかし頼りのコンパスも、極寒で凍り付き役に立ちませんでした。余談になりますが、現在冬山でよく使われているコンパスの最低使用温度は、マイナス35℃〜マイナス40℃です。
 歩兵隊は、初日に既にリングワンダリングしています。斥候を兼ねて先行させた設営隊が道に迷ってしまい、あろうことか本隊の最後尾あたりに合流しています。
 第一日目の露営地は、当初予定していた露営地である田代新湯から西南西約1.5kmの地点です。 

 二日目、歩兵隊は帰営を決定し元の道を戻り始めますが、しょっぱなから道に迷い鳴沢渓谷に入り込み、さらに田代への道を知っている者がいるということで再度田代方面に目的地を変更しますが、またも方向を間違い駒込川本流に出てしまいます。既に死者を出した状態で、結局、初日の露営地からわずか700メートルしか離れていない場所で、初日よりもさらに劣悪な条件で露営することになります。この露営で最大の死者が出ました。 

 三日目、またしても道迷い状態の彷徨を続けますが、多少天候が回復した正午頃、初日に放棄したソリを斥候隊が発見した報告を受け本隊は歓喜します。なぜそんなに喜んだのか? 目印が見つかったからです。しかしまたも道に迷ってしまいます。この頃には生存者もばらばらになっていました。生存者が救助されたのは五日目以降になります。 


 ベストセラーになったトンデモ本『話を聞かない男、地図が読めない女』には、「男は窓のない部屋にはじめて入ったとき、北を正確に言いあてる。」と書いてありますが、そんなものは分かりません。『NHKスペシャル 女と男』によれば、原始時代、男は狩りをして住居にまっすぐ戻れるように空間認識能力が発達したので、方角と距離を基に直進して帰ることができるということですが、それも大嘘です。GPSが普及していなかった頃は、冬山登山の際に「デポ旗」と呼ばれる赤旗を何枚も持っていって目印として打っていました。方角と距離の感覚で帰還できるなら、デポ旗もコンパスも要りません。
 山では、周囲の状況が人間の能力の限界を超えてしまう事態が容易に起こり得ます。天候悪化の兆しがあれば引き返すこと、それが無理なら、余力のあるうちに早めに安全地帯(雪洞など)を作り上げ、状況が回復するまで体力を温存することが大事です。