方向音痴な言説

地図・ナビゲーションにまつわる俗説を取り上げます

常に方角を意識すれば方角がわかるようになるか?

 過去記事東西南北な人、前後左右な人の続きです。

 京都・大阪・神戸・名古屋など、東西南北が容易に分かる地域に住んでいる人は、場所を説明する時、方位で表現することを好みます。しかし、他地方に行ってもすぐに方角が分かるわけではないし、見知らぬ土地で迷わないわけでもありません。
 相対的位置を示す「左右」の語を使わずに、絶対座標である「東西南北」の語を使うように心掛けていれば、絶対的位置が把握できるようになるから迷わなくなる、と主張する人が少なからず存在します。よく引き合いに出されるのが「左右」の語を持たずに「東西南北」で位置を表すグーグ・イミディル語です。グーグ・イミディル語話者が、100km以上離れた場所から自宅の方角を5度以内の誤差で正確に指差すことができた、というエピソードは有名です。しかし、私はこの件に関して極めて懐疑的です。グーグ・イミディル語話者はオーストラリア先住民であり、非常に見通しがよく東西南北が容易に判別できる地域に住んでいると思われますが、見通しが悪くごちゃっとした都市内でも正確に定位できるのか甚だ疑問です。
 その人が使っている言葉により、その人の考え方や知識量など、おおよそ見当をつけることができるのは確かでしょう。また、「細菌「地球」「電波」など、それ以前の時代になかった語彙を獲得した時、世界への認識の仕方も変わったものと思われます。確かに言葉は人の思考に影響を与えはするでしょうが、言葉で超能力は身につきません。
 例えば、核物理学の素養のある人なら、「α線」「β線」「γ線」「制動X線」「特性X線」などの語を、極めて正確に厳密に使い分けますが、だからといって、可視光線以外の電磁波が見えるようになるわけではありません。
 別の例も挙げましょう。ホテルに泊まった時、隣の部屋から物音が聞こえてくれば、我々は「人がいる」と表現します。ヘリコプターで上空から撮影した映像を見て、建物の屋上に黒い粒みたいなのが動いていれば、「屋上に人がいる」と表現します。名簿の中に「Ndoywthxiihe]という名前があれば、「この人はどこの国の人だろう」と言いますね。しかし、漠然とした「人」を表す語が無く、常に男か女か明示する言語もあります。「Ndoywthxiiheって、どこの国の男だろう」といった具合に。では、性別明示言語話者は、性別明示言語を使い続けることによって、物音を聞いたり黒い粒みたいな人影を見たり名簿の名前を見たりしただけで、相手の性別を瞬時に判別できる超能力が身についたとでも? そんなことはない、単なる当て推量に過ぎないでしょう。 

 よく知られているように、イスラム教徒は1日5回、メッカの方角に向かって礼拝します。イスラム教徒は、自分の慣れ親しんだ町中であれば大体どこにいてもメッカの方角を把握しています。見知らぬ町に出かけても、イスラム圏内であればモスク(イスラム礼拝堂)があるから大丈夫。モスクにはちゃんとメッカの方角が表示されています。
 しかし、物心ついた時から常にメッカの方角を意識する生活を何十年と続けたところで、イスラム圏から出てモスクの無い場所に行けば、メッカの方角など分かりはしません。だからこそ、メッカの方角を示す携帯アプリや腕時計、コンパスなどがイスラム教徒の間でヒット商品となるわけです。 

 地図読みに長けた人なら、常日頃から北の方角を指すコンパスを見慣れています。知らない場所で方角を当てさせるテストを実施した場合、コンパス慣れした人は、一般の平均よりも高い得点を叩き出すでしょう。しかし、別に北の方角を指すコンパスを見続けているうちに人体が磁性体と化して方角が分かるようになったわけではなく、単に周囲の環境中に存在する方角情報(太陽など)を見つけ出して方角を推測するスキルが他の人より少々高いだけです。
 東京在住の地図読み上級者(上級者の定義はこちら)が、南アルプスの沢を遡行中だとします。その上級者に
「あなたの家の方角はどちらですか?」
と唐突に訊ねたら、5度以内の誤差で正確に指差すどころか、
「知るかそんなもん」
と返事されるのがオチでしょう。
 地図読みの上級者は、確かに方角の推測能力もそれなりに高いのですが、濃霧に巻かれた時や、背丈を越す笹薮に突入した時など、自分はいとも簡単に方角が分からなくなってしまうことも自覚しています。分かりもしないことまで分かったかのように思い込んだりしません。 

 下記リンク先の記事は非常に示唆的です。 

伊那谷の山 ひとりごと 山で道に迷う
http://www.janis.or.jp/users/yoichi-k/mitimayoi.html 

 上記リンク先記事の筆者さんは、全く踏み跡の無い山中でも問題なくナビゲーションできる上級者ですが、ピークでうっかり体を回転させただけで方角が分からなくなっています。上級者といえども体を回転させただけで方角が分からなくなる、と言うより、上級者だからこそ、体を回転させて方角が分からなくなってしまった状況を正確に認識できた、と言うべきでしょう。「自分はいつ何時どこにいても方角が分かる」と大言する人は、えてして地図を読めない人に多いものですが、そういう人であれば、体を回転させて方角が分からなくなってしまった状況すら認識できずに思い込みに基づいて行動しそうです。
 リンク先記事から引用してみましょう。 

あわてて私は自分の足跡を探した。枯れ葉が一面に積もっていたので、ほんの少しの枯葉を蹴った跡とか、靴が滑った跡とかを、慎重に探した。4、5分は探したがダメだった。そこでようやく迷ったことを自覚した。地図を開いてこの地形に気がついて、樹林の中からはまわりの地形を見ようとしたが、木が密生してまったく見えない。コンパスに頼りたくても今日は持ってきていない。

あせって次に考えたことは見覚えのある木や石を見つけることだった。
[中略]
15分から20分ぐらい、付近をさまよったがどうしても見覚えのあるものがない。

 
 方角が分からなくなってからは、自分の足跡や周囲の特徴物、見覚えのある木や石など、何らかの目印を探そうとしています。最終的に、ピークから螺旋状に下りながら目印を探す作戦を実行し、見覚えのある石を見つけ出します。 

 方角が分からなくなってしまうことは、誰にだってあり得ます。ただ、上級者であれば、適切な対処策を取ることができるので、方角が分からなくなったことにより被るダメージを最小限に抑えられるってだけのことです。